2011-06-29

長野の善意

FREAK'S STORE 長野店・・・何か特別な思い入れがあります。
FREAK'Sの他の店舗とは少し離れているからでしょうか・・・
昔の青春のなごりなのでしょうか。
いやスタッフの気持ちが暖かくて多くのスタッフを輩出してきた店だから??

今回の震災の後についても、
この店の店長宮坂君が中心になって
長野の商店街の皆さんと一緒に進めた企画が新聞に掲載されました!

やはり店というのは物を売るだけの機能ではないと思っています。
雨が降ればしばしの雨宿り・・暑ければ暑さしのぎ・・・
人が暮らすときにいろいろと面倒や大変なことがあった時に
人と人が出会える場所でありつながる場所であるべきだと思っています。

やはり町の八百屋のような店が理想かもしれません。
お客様の顔がわかっていて お母さん・・息子元気?とか
いい大根が入ったから絶対食べてみてね!みたいに地元に自然に溶け込んでいる。

傘が無い時は、ごめん後で返すから貸してよという会話ができる。
人情と情報があって初めて命ある店になると思っています。
私の会社もまだそんなに多い店舗数ではないけれど
こういった心を失いたくないと思っていつも店作りをしています。

お客様から見て絶対なくなって欲しくない店ランキングNo1をめざして。
創業からの私の想いです。

2011-06-23

Heathという食器

最近購入したもので一番のお気に入り HeathというMade in USAのCupです。

ヒースセラミック社は1940年代中頃にイーディス・ヒースが設立した陶器メーカーです。

当時の製法そのままにハンドメイドでテーブルウェアを作り続け、40年代にデザインされたアイテムがMoMAのパーマネントコレクションに選定されるなど、当時から高い評価を受けています。


今回見つけたのはそのデッドストックらしいコーヒーカップ。

この色合いといい、取っ手のデザインといいMade in USAにこだわり、厚みがあり、陶器の温かみを感じられるアイテムを作り続けるHeath。


朝ももちろんですがコーヒータイムがとてもゆったりといい時間が過ごせています。セラミック製の商品なので、オーブン、電子レンジ、食器洗い機にも対応しています。こんなものを手に入れるとアメリカ好きな私としてはにんまりしながら毎日使ってしまいます。

いつの時代もいいものは良いですね。

2011-06-18

何を学ぶのか? その1 非現実的な夢想家として

このKEN'S STYEの事務局でいろいろとサポートしてもらっている長田さんが再度友人と被災地に行きボランティアとして活動してきてくれている。
また最新の現状は伝えてもらうとして。
我々はこの震災から何を学ぶのか・・また学ぶべきなのかを考えるいいチャンスではないだろうか。どうも日本人は島国なのか鎖国の名残なのか敗戦国のなごりか。
この震災から学ぼうとする姿勢があまり感じられないのは僕だけだろうか?
かえって海外の人たちの方が今回の震災から学んで討論し様々な施策の実現に向けて進んでいるように見える。

そんな中ある日本人の作家のメッセージが大きい話題となった。
スペインのカタルーニャ自治州政府が文化的または学問的に世界でめざましい活躍を
した人物に贈られる賞を受賞しての授賞式でのスピーチだ。

どうすれば(東日本大震災後の)日本国民に勇気を出してもらえるかとの記者の質問に、それを表現するのが小説家としての役目だと語りはじめた。

おりしも新宿はじめ全国的に原発廃止のデモが起こった日。
私達は何を感じて何を変えるべきなのか・・・この非現実的な夢想家として という
タイトルに凝縮されたメッセージを深く考えたい



 「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態(=常なる状態)はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。



 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。

 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。



 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。




 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)

2011-06-15

ONE PIECE Tシャツ

色々な人と年中名刺交換をしています。

我々業界以外の方と会うと、当社がどんなことをやっている店なのかなかなか理解されない事も多いのです。そういうことで最近は自分の名刺に店の写真をいれてみました。

そんな中で人気、知名度抜群なのが昨年もチャレンジしたワンピースとのコラボTシャツの企画。

さすがにこんなに人気があるとは思わなかった。昨年も当社の予想を上回る販売数・・・
この人気のアイコンをFREAKS風にコラボレーションできるのかどうか?
アニメは好きだが、キャラクターをそのままTシャツにプリントしただけだと、ちょっと着られないという声に・・・フリークス流にアメカジっぽくアレンジしてみました。








去年からの継続もあり今年もかなりの人気になりそうです。どうぞ興味のある方はお早めに店頭、もしくはWEBのONLINE SHOPへどうぞ

毎日JPのプレスリリースはこちらから。

販売先:
FREAK'S STORE ONLINE SHOP 6/10(金)より先行受注開始
 
ZOZO TOWN 6/10(金)より先行受注開始
 
FREAK'S STORE 直営全13店舗 6/25(土)より発売開始

2011-06-14

BOXING

先日は、先輩にお誘い頂き後楽園ホールにてBOXINGの試合を見に行きました。


具志堅さん主催の東日本大震災チャリティマッチです。メインイベントはOPB東洋太平洋女子Sフライ級のタイトルマッチ 山口直子選手。

具志堅さんといえばあの世界チャンピオンで今は白井・具志堅スポーツジムの会長です。
初めてお会いしましたが・・・あのちょっちゅねーの具志堅さん。



やさしくて素敵な笑顔の方でした。握手もさせていただきましたがなんて柔らかい手なんでしょう。
途中、渡嘉敷さんもオークションの司会でリングに上がっていました。彼は、具志堅さんにあこがれて、不良で喧嘩に明け暮れ負けるなんて思いもしなかったのが、ボクシングと具志堅さんに出会ったことが今につながっているとおっしゃっていました。

お話もあの・・・?具志堅さんとはちがって素敵な話をされました。
また一流の回りにはやはり錚々たるメンバーが来場されていました。
元WBC世界フライ級王者内藤 大助さんやもちろん渡嘉敷さん。
さらにはマラソンの有森裕子さんの姿も見えました。


試合はタイトルマッチを除けばエキジビションでした。ですが、それぞれに迫力がありテンションあがりました。ボクシングは人生の縮図?数ラウンドを体力と技術と心を考えながらしたたかに拳を出しつづける
気持ちが引いたら・・一度でも引いたらそれで終わり。テンションだけがあがり舞い上がったら隙をつかれてそれも終わり。

引き締まった身体は戦うまでの長い道のりの結果もたらされた最高のプロテクターであり兵器。
相手の体力と気力を測りながら、昔読んだ明日のジョーを思い出しました。ながら みていたセミファイナルの金田淳一朗さんの試合も圧巻でした。

劣勢に見えた金田選手が最終ラウンド残り2分をきったところでのTKO・・・最後まであきらめずに淡々と、人生そんなもんだろう。

菊池奈々子選手の引退セレモニーで憧れの具志堅会長とスパークリング。万感の思いでお互いのグローブを出し合っていました。またオークションでは数々のチャンピオンから出された品物に最高は会長のガウンが35万でした。でも被災地の方々への支援になるんだから、みんな楽しんで参加していました。

久しぶりに興奮した3時間でした。
薮下さんご夫婦、本当にありがとうございました

2011-06-09

秋冬内覧会

この季節、私達アパレルといわれる産業の人たちは秋冬の最終段階です。
え?と思うかもしれませんが、すでに展示会等々は終わり(1月から3月)ました。
これからは、各店で今期どのような品揃えをするのかお披露目というか業界に売り込みをしていきます。

取り扱う商品を並べてスタイリスト、メディア、雑誌、モデルなどの各業界の人に会場に来ていただきます。そして、この秋冬はこんな商品でやりますよ・・・と提案します。
よければ雑誌やモデルの着用が決まります。秋冬シーズンの前哨戦です。商品部は命がけのアピール・・・先週すでに業界向けが終わり、今週は社内向けの内覧会を開催しました。
さて今シーズンのフリークスは。。
"British Trad MIX"がメンズ、ウイメンズ共有テーマとなっています。

100周年記念のハリスツイードタータンチェックなどのチェック系にトラッドシューズのスリッポン、タッセルなど。。
着丈とかも短いのは少し終わりかけてきて普通の丈になってきたけど大人っぽくて新鮮です。
またOJI系というおじさんぽい着こなしもトレンドになってきています。




レディスはこれに"Retro Bohemian"として、ビンテージ柄のワンピース アニーシャ+フリークスの商品などにバギーパンツ ファーやムートンも着こなしのポイントに・・・



メンズは得意の"Heavy Duty"が加わり全体感はニューハンプシャーのダートマスからきた"Big Green EVO"がテーマとなっています。

またバイヤーもがんばり"Canada Goose"のフリークス限定はメンスレディスともに


Rocky Mountain + REMIRELIEF + CASH CA等の新しくてキャッチーなところも抑えています。

市場は変化が少なそうな中で新しさをどうやって出してゆこうかと考えていますが
今シーズンもフリークスの商品は魅力的なおすすめでいっぱいです。

ぜひ今年の秋冬はご期待ください。

2011-06-07

Never Let Me Go

KAZUO ISHIGURO
このイギリスの作家をご存知でしょうか?最近NHKでも放送されたので知っている方も多いかと思います。
イギリス在住の日本人でも日本語は話せません。

そんな彼の一番新しい作品がNever Let Me Goという作品(邦題 「わたしを離さないで」)。これが日本で映画で公開されています。映画は好きで良く見ますが、これといった秀作というものには、なかなか出会いません。(2度3度見ても、さらに興味が湧いてきたりする。映像、衣装、音楽、キャスティング全てにおいて芸術性が高い。そんな映画に出会うのを楽しみにしているのですが)

そんな中でNever Let Me Goは、Into The WILD以来のぐっときた映画です。


 過酷な運命を懸命に受け入れようとする若者を描いた哀切きわまりない原作小説が、米国出身のマーク・ロマネク監督による静謐(せいひつ)な映像で再現されています。10年ぶりに来日したイシグロさんは「若い俳優たちが深く役を掘り下げ、原作者の自分が知らないことまで教えてくれた」と語っています。

 主人公は、特殊な寄宿舎で育った男女3人。ほかの子供のように絵や詩作に励んで成長した彼らはやがて、他人を生かすために人体の「提供者」として生を受けたことを知ります。過酷な宿命を強いられた若者が、友情や恋愛を経験しながら人生の意義を見いだそうともがく姿が描かれています。

 「状況を受け入れる、というのが重要なテーマ」とイシグロさんは話しています。

 「避けがたい過酷な境遇を受け入れながら、人生に意味を見いだし、ベストを尽くそうとする。それはほとんどの人間がしていること。人生は短い。その中で自分にできることは何か? 読者一人一人に考えてほしかった」とインタビューで答えるイシグロさん。

へールシャムという寄宿学校は子供という時代のメタファーであり、大人の私達が同じ奇妙さであったり恐怖のプロセスを感じるところから物語は始まっていきます。

このKen'S Styleはもっと元気に夢をもって生きてゆくってどういうことなのかということを、洋服屋という垣根を一度はずして皆さんと向き合ってみたいというところから始まっています。

いま思えば、私のブログを出すことが目的ではありません。本人は自分がどのような生活をしているのかわかってしまうBLOGは芸能人のように自分が売物でない限りはあまり積極的になれないのです。

もっと一人ひとりが、今というモーメントの中でガンガジいわく Meet what is now 今ここにあれ、今ここから学べ、いまここを味わえ という事につきるのです。

人は怖がることに怖がり、未知の自分を知り得ません。ある年齢になると周りで起こっている事にわくわくもするが同時に怖くなったりもして情報を自分の価値観でコントロールしようとします。

そのプロセスは子供が成長して大人へなってゆくプロセスと同じです。

大人になると年をとることを受け入れ、死は不可欠であことを受け入れようとしますが、実は自己は自己の創り出す認識でしかないはず。私達人間は歴史的にも幾百の苦難や辛苦に直面しそれを受け入れてきました。今回の東北地方の震災も同様です。

しかし、そのような状況になくとも、人は自分というものに対して消極的になりがちです。自分お仕事や地位というものを人は受け入れても、そこから脱出しようとしません。実際のところ自分の仕事をやり遂げたりすることで尊厳と存在を得ることができます。しかしそれが時に悲劇的なことになることもあります。

この映画では、逃亡という手段は出てきません。しかし我々は現実として死について様々な方法で逃れようとしています。死後の世界について信じたり、何かを残そうとしたりして。 

この作品の中では真の愛は大きな困難や死すらも乗り越える力になることに、そのことについて希望を持っていることが大きな力になっています。

微笑みながら最後のドネーションに立ち向かうTONNY、それを見送るキャッシー。私達の臓器を移植して長く生きるあなた・・・長く生きることは本当に幸せでしたか?とでも言いそうなラストです。

その後の回想シーンで言葉も・・・・あまり言い過ぎると本当にネタバレになるでしょうから、あとはお楽しみに。