2011-04-30

本当の自分を考える 2

 自我を意味するego(エゴ)はラテン語で「私」を意味します。実際にはそれは、「私」という思考であり、「私とはこの身体である」という感覚と対をなしています。そしてそこを出発点として、限りなく複雑に拡張していくのです。

 人間という肉体を持って生きる私たちには、自分を独立した自我として認識する自然の力が備わっています。それはものすごい能力であり、その能力には何の問題もありません。進化順応の結果であるその素晴らしい力によって、人間はあらゆる局面でほかの生物よりも有利な立場に立ったのです。けれども自我はまた、自己嫌悪、自己虐待、利己心、そして自己超越の原因でもあります。もし私たち一人ひとりの身体/知性/自我が私たちの最終的な真実だと信じるなら、それに続いて引き起こされるのは甚大な、そして不必要な苦しみです。

 自分とは自分の肉体に限定されている、と信じて生きていると、意識的にも無意識のうちにも、その肉体を保持することが最優先事項になります。肉体の安全を絶対に保証できるものはない、という認識を持つにつれ、大いなる恐れが生まれます。

 遺伝、環境、事故など、肉体は明らかに様々な危険にさらされています。そして最終的にはその機能が使い果たされるのは避けられません。当然、肉体を保持し、安全に保つための試みはどれも、隠れる、攻撃する、といった自己防衛戦略を生みます。そしてこうした戦略は、好戦的性格あるいは服従的性格、また社会的、性的な対人技術へとつながります。そのどれもが、「私とはこの肉体である」という考えを擁護するための方法です。これが自我です。

 肉体の保存が最優先課題であるとき、私たちの住む世界は恐れに充ち、身構えたものになります。ほかの人、部族、国を犠牲にして、「私」「私の部族」「私の国」を最優先させるという防衛的な行動は、多くの苦しみを生みだします。こうやって戦争が始まるのです。戦いが兄弟・姉妹の間のものであれ、親子間、夫婦間、あるいは部族、国家間のものであれ、それはみな、他人とは本質的に隔てられた特定の存在が自分である、という非常に限られた自己認識に根ざしています。

 自分の肉体、すべての人の肉体、あらゆるものの肉体は死を迎える、という現実が明らかになる瞬間がやってきます。多くの社会、中でも西欧社会はこの事実を隠そうとしますが、肉体の死は最終的に否定できません。意識が覚醒したとき、それまで恐れ、否定し、そこから逃げようとして続けてきた死という悪魔が無意識から呼び起こされ、対峙させられます。そのときあなたは、永久不滅の、意識という否定し得ない存在、すなわちあなたという存在の真実の姿に気づくことができるのです。このことに気づいたとき、自我が現実であるという思い込みは終わりを迎え、代わりに決して終わることのないものが姿を現します。あなたがあなたの肉体以上のものであることは明白です。実はあなたとは、肉体に吹き込まれている生命そのものなのです。

 最終的には、自我とは思考にすぎない、ということがわかります。純粋な意識に限界を与えるものは何一つありません。あなたがあなたの真実の姿に気づくのを阻む唯一のものこそが、この「私とはこの肉体である」という自我にのっとった思い込みなのです。この思い込みを持ち続けるためには、あなたが自分はこういう人間だと抱いているイメージに沿った、絶え間のない思考活動が必要です。

 この思考活動を止め、代わりに「自分」という中心の思考の内側に意識を向けたとき、あなたは、本質的にどんな思考も防衛の必要性も存在しない、無限の、純粋な意識を発見します。それがわかったとき、自我とは、夢やトランス状態が幻想にすぎないのと同じように、ただの幻想にすぎないことを理解するでしょう。

 それはあたかも現実であるかのように見え、感じ、体験されるかもしれません。でもそれは自我の実体を深く追求したことがなかったからです。この追求が自己探求です。幻想、この場合は最も本質的な幻想に率直に疑問を投げかけることこそが、真実をじかに体験することへの手がかりです。

 追求すると、個々の「私」とは夢にすぎないことがわかります。甘い夢でも悪夢でも、夢から目覚めたとき、あなたはそれがただの夢だったことがわかります。もちろん、夢や幻想に問題があるわけではありません。それが問題になるのは、夢、特に「私」という思考が現実として受け入れられてしまう場合です。

 人は誰しも幻想に騙された経験を持っています。砂漠の蜃気楼や、地平線が世界の果てだと思うように。幻想は、それに問いが投げかけられない限り、非常な力を持っています。真の探究とは、何が真実で何が幻想か、何が永遠で何が一時的なものかを明らかにすることを目的としています。